母は86歳で「骨髄性異形性症候群」と診断され1年間投薬での治療をしてきましたが、
ついに薬の効き目もなくなり「急性白血病」へと進みました。
この段階では、治療方法は無菌室での抗がん剤治療しかないとのことでした。
しかも治る確率はとても低く、副作用の方が心配な状態でした。

骨髄検査の結果はとても悪く、長くても3ヶ月もったら良い方だと言われました。

この時点での母はというと、年相応に老いてはいるが自分の事は自分で出来る状態で、
検査結果とはかけ離れた状態でした。
このことを母に告げ「どうするか?」を聞くと、
「無菌室に入ってまで治療するつもりはない。自宅に帰る」と言ったので、
在宅での看取りを決めました。

母とは、元気な時から「延命処置」の件や、「最後はどこで死にたいか?」など話しをことあるごとにしていました。
それに医師に長くて3ヶ月と言われたこともあり、出来るだけのことをしてやろうと思い私もすんなりと受け入れました。

ここからは、母を在宅で看取った私(息子)の実体験と個人的な素直な気持ちです。
少しでもあなたの参考になればと思い書いています。

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母を看取って1ヶ月、今、思うこと

正直な気持ち

母が亡くなり、寂しいことは寂しいですが、悲しみは余り感じません。
この寂しさも亡くなったというよりは、どこかに引越しでもしたような感覚に近いです。
母を「自宅で最期の時を迎えさせてあげられた」という達成感みたいなものがそうさせているのかも知れません。

何か不思議な感じです。

これは、家族も感じているみたいで集まると自然と母の話しになります。
その時も、悲しいとか寂しいと言うよりは「良かったね」という感じが前面に出ていて明るく話しをしています。

また、在宅で母を看取ったことで、家族の絆がより強くなった気もします。
一緒に困難を乗り越えたような感じになっているのかも知れません。

もちろん、かかりつけ医、訪問看護師、ケアマネージャー、ヘルパーさん達の助けが無かったら出来なかったことです。とても感謝しています。

残り3ヶ月と腹を括って母の在宅での看取りを始めましたが、
母に腹が立つというか、イライラしていた時期もありました。

母の場合、当初は普通に生活を出来ていたので、
一緒にいるだけで見守りのような状態でした。
ところが、病状の悪化が「月単位」から「週単位」になってきた頃、見る見るうちに出来ていたことが出来なくなり、
食事の量も減り、ベッドで何もせず横になっている時間が増えました。

例えばトイレですが、歩行器を使って自分でトイレに行っていたのが、
ポータブルトイレに変わり、おむつに変わりました。この間、約10日でした。

この時期が私にとって一番きつかったかも知れません。
きっと、母が落ちていく速さに私がついていけなかったのだと思います

インターネットで調べたり本を読んだりして知っていたのですが、
いざ、その時になってしまうと
「もっと食べないと」とか、「頑張らないと」とか言ってました。
きっと、私自身力が入り過ぎていたのでしょう。
その時、妻に「もっと力を抜いて!普段の生活の中に介護の母が居るというイメージで!」と言われ、一気に力が抜け冷静に慣れたのを鮮明に覚えています。
気が付けば、私の中での母の占める割合が増え、冷静さを欠いていたのだと思います。

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この頃の母は、「何がどういう風にとか、どこがしんどいかと言われたら、言えないけどしんどい」と言ってました。
手足や身体全体に重りをつけられているような感じで、その重りが毎日ドンドン重くなっていく感じだそうです。

それからは、母の「思うようにやりたいように」と、在宅での看取りの本来の形に戻ることが出来ました。

また、母も1回だけ「緩和ケア病棟に入った方が良いかなぁ」と言ったことがありました。
これから先の不安と私たちへの負担のことを思ってだと思います。

しかし、2日後「やっぱり、入院するより自宅の方が良いなぁ」と言ったので「なぜ?」と聞いてみると

「訪問看護師さんやヘルパーさんが良くしてくれる。入院してたらこんなにはしてもらえないだろうなぁ」ってことでした(笑)
訪問看護師さんは1時間から1時間半、ヘルパーさんは1時間、自分だけのことをしてもらえるからだそうです。

この時期、キーボックスを付け、自由に出入りできるようにしていましたので。朝から訪問看護師、昼からはヘルパーさんに来てもらっていました。
それに、かかりつけ医も毎日来てくれるし、点滴をすれば点滴を抜きに訪問看護師が来てくれるしとか、朝から晩まで人の出入りがありました。

このころ、一番困ったのは食べさすことです。
食べられる量も段々減っていき、食べることへの関心も減ってきていたと思います。

母の好きそうなのもを、手を変え、品を変え、目先を変えて食べさることでした。
母の好きだった和菓子、フルーツやアイスクリームを買ってきたりしていました。

母が聞くと「食べないといけないの解るが、食べられない」「欲しくない」「お腹が空かない」と言ってました。

食事も食べられなくなり、最期はカットスイカ半分でした。

最期の時に向かって

母が亡くなる3週間くらい前から、日ごとに良い悪いを繰り返すようになり、
調子のよい日は嘘のように元気で、悪い日は、昨日のことが嘘のように辛そうでした。
この時期に、母は、「こんなにしんどいのなら、もう死にたい」と2回言いました。

その後も小康状態が続き亡くなる1週間前(8月10日)には、寝ているのか起きているのかわからない状態(傾眠状態)になっていました。
その時は、8月13日には弟家族が帰省してくるので、何とかそれまでは頑張ってほしいという気持ちで一杯でした。
結局、母は17日亡くなり、弟や孫たちとも会え、少し話しも出来良かったと思っています。

母が亡くなった17日の朝、母は私に「今日はみんな居るんやろう。みんな居る今日逝くわ」と言いました。

その日の母の状態は驚くくらい安定していて(血中酸素98%、脈拍80)でした。
昼間に訪問診療でかかりつけ医の先生が来た時も、まだ、しばらくはという感じでした。

ところが、その日の夜19時過ぎに急変し、仕事に行っていた娘が帰ってくるのを待っていたかのように22時25分に息を引き取りました。

家族みんなに見送られての最期でした。

まとめ

最後に、母を在宅で最期まで看取れて良かったと思っています。反面、本当に良かったのかという気持ちもどこかにあります。

確かに、辛かった時期もありましたが、辛かったことは飛んでしまって、逆にもっとしてあげるられたことがあったのでは?と思っています。

しかし、「出来ることはした」と自分に言い聞かすしか今は方法がありません。正解は無いのでしょうし、あっても解らないのでしょうから!

最後まで家族の気配を感じ、声を聞き、そして愛猫と暮らせた母は幸せな最期だったと思いたいです。

アドバイス

耳は最期の時まで聞こえていると言われます。
実際に母を看取って私もそう思います。
寝てるのかなぁと思っていても家族の声に反応したり、話しかけるとちゃんと答えていました。
相手が、どういう状態でも「声かけ」はしてあげた方が良いと思います。
在宅で看取ると言うことは、ご本人の辛そうにしているところ、苦しそうにしているところも見ないといけないと言われますが、
私は母を看取り、そういう時期を家族が見ることで「よく頑張ったね!もう楽になってもいいよ」と家族にも決断させる時期ではないのかと思いました。

最後になりますが、支えて下さった医師、看護師。ケアマネージャー、ヘルパーさんに御礼申し上げます。

私の戯言に、最後までお付き合いいただきまして有難うございました。

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